プロフィール

プロフィール

上鶴 芳彰 (かみつる よしあき)

27歳 (2015年現在)

1988年 (昭和63年) 3月1日生まれ

兵庫県神戸市出身。


2010年22才だった頃の秋。
5年間勤めていた、おじいさんが経営する会社を辞める事にした。
そのまま努めていれば会社を継いで社長にもなれて世間では
安定』と言われた『』があったのにも関わらず。

けれども僕は

その『安定』した生活をしている
未来の自分を想像したけども、
その社会の歯車の上に住んでいる以上
自分にとっては全く面白味がなく、
つまらなさそうな人生だと感じた。

『お金や地位でないもの』の方が
価値のある様に思えた。

辞める決心はしたが、
ただ辞めるだけでは意味が無い。

親にも心配かける事になる。

辞めるからには、
何か新しい事を始めなければ。

そう想い、
もう辞めると決めた会社のデスクの上で
真っ白なノートを広げて、
半日も仕事そっちのけで考えたのであった。

辞めるとなると共に、
これからは『自由だ!!』
そう感じずには居られなかった。

考えと発想によっては、
何でも出来てしまうじゃないか。

安定』よりも当時の自分は、
その『可能性に賭けてみる事にした。


今となっては、
僕にとって昔の笑い話の一つだ。
何も暗い話しではない。
そう思ってこれから先を読んでほしい。

時代はさかのぼり、16才の秋。

とある事から自分の腕を自ら切った。
いわゆるリストカット。

死には至らなかったものの、
当時の傷は深く、
今でもその痕は大きく残っている。

僕は昔は心が弱く不安定な思考で、
人前で何か自信を持って言える様な事が一つもなかったし、
それすら自分の口から表現できなかった。

そんなダメな自分に気付き、

何か、自分を成長させる方法は無いのか。

と、考え始めた。

自分で腕を切って、一度は死のうとしたぐらいだ。
自分自身で死を選ぶほどの大きな力があるのなら、
そんな事が出来てしまう勇気があるのなら。
他の事など『なんでも出来る』と思った。

自分自身の事がよくわからなかった僕は、
自分を知る為に、自分を成長させる為に。

今立っている場所(神戸)から
一番遠い所まで行って帰ってこよう。

そう思ったのが、この物語の原点だ。

当時は原付バイクを持っていたが
2万円しか持っていなかった。

燃料代でご飯が食べられなくなると思ったので
ヒッチハイクで日本の最北端は宗谷岬まで。
たった2万円だけを握りしめ、
持ちにくい鞄に着替えと寝袋一つを詰め込み旅に出た。

当時、
学校もまじめに行っていなかった
大バカ野郎。

盗んだバイクで毎日、昼以降に登校したり
世間では『どうしようもない人』だった自分に対して
各地の見知らぬ人達は優しく受け入れてくれたのだった。

そして嫌煙していた口うるさいと思っていた
『大人達』の様々な人の考え方や優しさに、
初めて正面から触れた。

高速のパーキングエリアでヒッチハイクをしていると、
「アンタ、危ないからこれでバスで行きなさい。」
そう言っておばさんに5000円を持たされたり、

ある日は、ドライブしていたおばちゃんに
今日は暇だからと言って
風呂に入っていない自分を温泉へ連れて行ってくれたり
ご飯にも連れて行ってくれたり、
行きたいと思っていた場所、全て親切に連れて行ってくれた。

台風が来ている時にヒッチハイクで捕まえたおじさんに
「こんな日にヒッチハイクするな馬鹿者が。」と叱られ、
そう言いながらも乗せてくれる。

乗せてくれたイケイケの兄ちゃんが
スピードの出し過ぎでオービス(速度取締機)に
写真を撮られてしまってすごく不機嫌になったり、
ある時は聖教新聞を自宅に一年間無償で送ると言われ、
家の隣の住所を教えたりもした。

一ヶ月弱の旅だったが数々の人々に助けられ、
応援があって無事に神戸に帰ることが出来た。

帰ってくると僕は。

世の中に対する目が、
180度変わっていた。

神戸の実家に到着して財布を広げると、
たった2万円しか入っていなかった財布は、
2万千円に増えていたほどだったのだ。

そんな人情味のあるドラマを
毎日、生で経験し体験が出来ると云う
自分の人生の中での新鮮さに学びがあること
旅を好きになってしまった理由の一つに挙げられるだろう。

それから一人旅に没頭し、
行けそうな時間を見つけては旅に出た。

北には行ったし、今度は南の沖縄まで。
そう考えて沖縄へもヒッチハイクで向かった。

鹿児島まで陸続きに車を乗り継ぎ、
24時間船に揺られて沖縄へ。

初めて沖縄へ到着すると、
同じ日本人なのに土地の人柄が
全然違って見えた。

知り合いなどは
もちろん一人もいない沖縄では、
一週間過ごした。

その一週間は、野宿を一度もする事なく、
ヒッチハイクで出会った方々の自宅に
泊めて頂いたのだった。

今でも、
その時にお世話になった家族とは交流があり、
今までに5度の再開を果たしている。

土地によっても、
その土地の人々の考えや習慣、風習が違う。

そして、
限りなくこの世界には、
いろんな世界があること
を気が付き始めた。

そんな更なる新しい発見を覚えた事が、
旅が好きになった二つ目の理由に挙げられるだろう。

初めての旅から沖縄へは2回。

10代後半の4年間の中で
三度一人旅を行った。

いつかは、
ヒッチハイクの様に他力本願な行動ではなく
『自分の力で、自分の足で、日本を周ってみたい。』
そう思う様になっていた。


話は22歳の秋、
仕事をほったらかして次に何をしようと考えていた
会社のデスクの上に戻る。

そんな事もあって日本一周を想い立ったのだ。

そしてどうにか、
その生活を続ける事が出来ないのだろうか?? と。
考えた末の答えが『世界の各国を一周づつする』だったのだ。

世界一周ではない。

世界一周を終えれば次は宇宙一周でもするのか?
と、自分の中に疑問が出たからだ。

更に、その国を一周する事を達成する度に、
自分一人だけその体験を『一人締め』するのではなく。

家族仕事色んな事を抱えている人
色んな理由で 『やりたいけども出来ない人』にも
この経験をただするだけでなく、 届けたいと思った。

これから一カ国を周るごとに一冊の本を出す。

自分も旅に行けない時期
そう云った本に励まされた。

してもらったら、お返しする。

これは日本人の大切な文化、侘び寂びの心そのものだ。

じゃあ、体験記を書き綴って行こう。
じゃあ、期間はとにかく必ず10年間続けてみよう。
矢継ぎ早に自分の中から決断の意思が見えてきた。

『成功するか、成功しないか』
なんて
『やってみなきゃ分からない。』

そう沸々と熱く
仕事そっちのけのデスクの上で、
腹をくくったのだった。


  2011年
とはいえ、すぐに旅立てる資金も貯めてなかったので
行きつけのBarで働かせてもらえないかとお願いして
1年間ほどアルバイトして資金を貯めさせてもらった。

ある程度お金を貯める事が出来て2011年6月19日に出発。
だが… 1ヶ月と2週間が経った頃だった。

福島県を走行中。
道路を横断しようと、物陰から飛び出る形で
道路を横断しようとした。

すると…80kmの猛スピードで走って来る車が見えた。

…はっっ!!

気付いた時にはもう遅かった。

相手も突然の事でタイミング悪く
前を見ていなかったからか、
ブレーキも無しに真横から直撃して跳ねられた。

跳ねられるとわかった直後、
左足にかけていたペダルに全身全霊の力を込めて
少しでも直撃を避ける為に前へ進んだ。

死にたくない…!!  と。

あの時、僕が判断を誤り、
猛スピードで走ってくる車に怯んで
ブレーキをかけていたら…

僕はおそらく直撃して
頭を強く打って死んでいただろう。

何秒か宙に回転して舞って地面に叩きつけられた。

事故直後の地面の上だった。
目を開けると『い…生きてる。

不幸中の幸いだった。

ふくらはぎから足の骨が飛び出ていたのにも関わらず、
痛みはなかった。

自転車は…と、
痛みを補う為に脳内物質が大量に放出され、
視界、感覚、聴覚が全て重たく、
意識が朦朧とする中で、
腕を使って身体を起こして自転車を確認した。

自転車は停車禁止の道路標識に飛んでぶつかり
標識が根元から折れて、
地面と平行に折れ曲がり、倒れていた。
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それほどの衝撃だった事を思い知らされた。

一命を取り留めた。

目を開けた時の
『まだ、生きている。生きているんだ…』
と言う感覚は今でも忘れていない。
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それと共に
『例え、いつ死んでも後悔が無い様に自分がやるべき事』が
死の淵に立って明確に感じ取れた。

とは言うものの、
左足のふくらはぎから骨が飛び出てくる
開放骨折と云う大怪我だった。

事故からすぐに、
福島県の病院に緊急入院する事になった。
20110804-110717.jpg

もちろん自転車を漕ぐ事も、
立つ事すらも出来ずに
悔し涙を一人流した日もあった。

事故を経て思うのは、
『生きている限り、なんでも出来る』と云う事だ。

いちいち出来ない理由を考えて
出来ない世界に思考を巡らせるのではなく、
どうしたら出来るだろう?』
どうしたら、その想像した世界を作る事が出来るだろう』と
これからの先に希望を見出す

そういった考えを持つ事が
今の現代の人達には必要なのではないかと思っています。

事故から1ヶ月後、
ある程度松葉杖で歩ける程度に回復すると
神戸に戻った。

すると、
日本一周の資金を貯めさせてもらったBarを
たまたま縁あって継がせて頂ける事になった。

あの時、僕が事故をしていなければ
そのお店はもう閉店してしまっていた。


  2012年1月 〜 2014年4月

足を引きづりながらBarを経営しつつ、
日々の足のリハビリはかかさなかった。

近畿圏の最高峰の山々などに出向いて
登山などを通してトレーニングに励み、
順調に足を回復。

そして…

2014年 5月7日

日本一周再出発する事が出来ました。

3年間も経ってしまったけども
僕にとっての夢の形は変わっていません。

10年続ける。

それも忘れていません。

なぜ僕が髪を切っていないかち言うと、
『日本一周を達成するまで切らない』
なんとなく出発当時にそう決めたからです。

自分の中で決めたことは必ずやり通す。

10年の後は…?と
疑問に思う方もいるかもしれませんが、
その時の事もちゃんと考えてあります。

それはその時にお知らせします。

これから進んで行く道の上で僕と出会ってゆく人々にとって、
刺激を与え、人生が大きく変化する方もいるかもしれません。
新しい一歩であったり、思考、行動の変化。

僕が夢に向かってひたすら自転車を漕ぐ。

そんな姿を車から見かけたりして
ニコニコしている人、手を振って下さる人、
声をかけて下さる方々を毎日見かける。

こんな『なんとでもない人』が
何らかの『影響』を与えているのがわかる。

これから数々の出会う人達にとって
その一瞬の出会いが、
人生を大きく変化させる出来事になるかもしれない。

そんな事があるならば。
僕の身の回りから幸せを広げる様な良い事を、
この世に少しづつ増やしていけたのなら。
自分の見る世界は、幸せな世界の人々になっていく。

大きく世界を変えると言っても
目の前の人が悲しんでいては意味がない。
だから、まずは身の回りから。

そうする事で
この世界は少しづつ幸せが増えてゆく。

そして、それは連鎖し
また新たな感動が生まれ続けるであろう。

それを願い、今日もまた一歩前へ

平成27年6月20日 上鶴 芳彰

何かご意見があれば直接、御連絡ください。
kamitsuru@icloud.com


このページを見るかどうか、わからないけれど。
母親へ。

ある日、いつの事だか忘れたけど
自殺のニュースを見ていたおかんが
独り言の様に言っていた。

「こんな勇気があれば、その気になれば
 何でも出来る子なはずやのにね…。」と。

ちょっとグレていた僕は、
おかんの話しは
全てうるさいと思っていました。

ぼーっと聞き流していたつもりが、
ちゃんと。聞いて、覚えていた。

その事を、これを書きながら思い出しました。

それを思い出した時、
涙が止まらなくなりました。

パソコンの画面が見えなくなって、
キーボードも濡らし過ぎて壊しそうになりました。
それくらい、涙が止まりませんでした。

おかん、ありがとう。
そのおかげで今の僕がいます。
本当に、本当にありがとう。

やっぱおかんってすげーわ。
感謝してるよ。


もし、僕に万が一の事があった時は
母親にこれを見る様に誰か手伝ってください。

僕は、やりたい事が出来ているから
常に幸せだった。と。

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