突然の大富豪おじいさんの死

北海道へ戻った2週間後。

2016年、年が明けた1月4日。
僕のお爺さんが亡くなったとの連絡が
神戸の母から突然寄せられた。

すぐさま北海道から飛行機のチケットを取り、
お爺さんの葬式へと向かった。

葬式会場には、
2週間ほど前に14年振りに再会した親父が喪主を務め、
数年前まで共に働いた会社の方々や
昔懐かしい親戚の方が顔を揃えていた。

僕のお爺さんは、とても大きな会社を
たった一代で築き挙げた偉大な方だ。

小さな頃から上鶴家の長男だった僕はおじいさんから、
「大人になったらお前がこの会社を継いで行くんだぞ。」
そう言い聞かされて育った。

その当時の僕は
当然そうなるものだと思い込んでいたし、
そのつもりでいる自分が居た。

しかし、そのおじいさんの願いは
現に叶えられない形になってしまった。

なぜ僕がその会社を継がなかったのか。
その答えが今こうして僕が旅をしている事につながっている。

僕のおじいさんは正直言って、
とても大金持ちだった。
昔は貧乏で苦労したほどだったそうだが、
自分一人の力で努力し、
会社を立ち上げそこまでに至った。

しかし、そこに至るまでが
おじいさんの人生を大きく狂わせた。

僕が幼い頃、おじいさんは
高級そうな椅子に座って大股を広げ、
昼間から酒を飲み、
タバコをふかしながら手を広げこう言っていた。
「この世の中で金で買えないものは何もない。」

僕はその言葉を聞いて、
本当にそうなんだろうか?と
小さいながらに考えた記憶がある。

その言葉通り、
おじいさんはお金で何もかもを手に入れた様だった。
高級家具、時計、車、友達、女、
何でもおじいさんの身の回りにはあるように見えた。

それが月日が経つにつれてどうなっただろうか。

手に入れた物は形を変えずあったものの、
周りを取り巻く人間が形を変える者が現れ始めた。

会社の経理を任せている者が会社のお金を横領したり、
おじいさんの財産を狙う人々が
心にもない事を口々にいろんな事を言った。

「あの人がどうだ」「この人はこうだから」
自分が良く思われたいからと、
有る事無い事なんでもおじいさんに言った。

小さな頃からそんなドロドロした景色を見てきた。

おじいさんは起業家としては
とても優れた素晴らしい人だと思う。

けれども唯一、
お金の持つ心持ちを間違えていたのかもしれない様に思えた。

僕がおじいさんの会社に勤めることになってから、
5年勤務し、その会社を辞めると言い始めた時も
会社の近くに「新築の一軒家をお前の為に建てる」と言い始めた。
当然、僕はそんな物は欲しくなくって、
それがあったとしても辞める。だから要らないと断った。

それでも本当に新築の家を強行して建ててしまったんだけど、
それから僕がそこに住む事は無かった。

物を与えることで人の気持ちが変わると思っていたのだろう。

会社を辞める理由は前回の記事にもある通り、
当時僕と実の父が10年ほど顔を合わせていない状況で、
ある日突然に会社へその親父が帰って来て
一緒に働かなければならなかったからだ。

そのことが理解出来ずに会社を辞める決意をしたのだ。

新築の一軒家に住むことよりも
過酷な旅をすることを選んだ。

僕が怒って会社を出ると、
帰ってきたはずの親父は責任を感じたらしく
すぐにまたどこかへ行ってしまった。

やがてガラ空きになったおじいさんの会社には
財産を狙う物が集まって来た。

また影で会社の金を横領する者がちらほら現れ、
人のお金を自分の物にして行った。

おじいさんは
年を取るに連れて糖尿病や心筋梗塞を患い、
あまり動けない身体になっていた。

昔は怒るとすごく怖い存在だったおじいさんの力は次第に弱まり、
やがて周りでペコペコして取り巻いていた者達は
おじいさんに寄り付かなくなり離れていった。

最近の生前までのおじいさんはとても寂しそうだった。

お金は億を超えるほど資産があるのにも関わらず、
身の回りに何も大切なものが何も無いようにも見えた。

おじいさんがもう先が長く無いとわかった時から、
おじいさんの娘がおじいさんの面倒を見るようになった。

面倒を見ると言うより、財産を狙いに来た。

おじいさんは身の回りの携帯や電話などと言った物を
娘に全て奪われ、病院を転々とさせられ、
誰もおじいさんと連絡が取れない状況になってしまった。

その間に財産を狙った娘が
会社の預金やらの銀行のお金を全て引き落とし、
おじいさんが持っていた実家や、
ほとんどの土地も売り飛ばし、
お金に変えてそれを持ってどこかへ消えた。

葬式にもその女は現れなかった。

実の父の葬式にだ。

実の娘が現れないまま葬式は進められた。

まるで昼のドラマの一部始終でも見ている様な出来事だった。

お金は人をこうまでさせるのか。

とても悲しい光景だった。

葬式が終わり、
おじいさんの棺桶が閉められる寸前に
僕はおじいさんの寂しそうな姿に、
おじいさんの願いを叶えてあげられなかった事へ
すごく後悔し、涙した。

あの時僕が会社を飛び出さなければ、
ちゃんと会社を継いで守っていてあげれば、
こんなに悲しい結末にはならなかったはずなのに…。

僕は僕の願いを叶える為に今こうしているが、
おじいさんの願いを叶えてあげる事は出来なかった。
”落ち着いて生活してほしい”と云う母親の願いも
叶えてあげられる事は出来無いかもしれない。

そう考え始めると僕はどうしていいのかわからなくなった。

この経験で思った事は、
人は自分の為に生きるのか、
それとも人の為に生きるのか。
2つの選択肢があるという事。

その選択が大きく人生を左右するという事を。

家族、子供、仕事、夢などなど、
人によって守りたい物は様々だ。

いずれにせよ、僕はもう既にその選択肢を決めて歩き始めている。

悲しい結末を生んだ判断にもなってしまったが、
僕のこの先にある物は必ずいつか見えてくるだろう。

その時、僕はまたおじいさんにその事を報告したいと思う。

おじいさんに気付かされた大切な事。
それは、『心の大切さ。』『真心の価値。』

いくらお金を持っていても、
どんなにお金を持っていなくても、
幸せに人生を過ごす方法なんて
いくらでもあるんだ。

これまでに沢山の人を見てきて思ったよ。

いくらお金を出しても、
心には響かない。

どれだけ心を込めてその人に接するか。
それが人の気持ちを左右させることを。

おじいさんから直接ではないけれど、
あなたから大切な事を教わりました。
その大切な物を持って僕はこれからも進み続けます。

あの時の願いを叶えてあげられなかった分、
この願いだけは叶えてみせます。

どうか天国から活躍を見守っていて下さい。

ありがとう、おじいさん。
どうか、安らかにお眠りください。


非常に暗い内容になってしまった事を
お詫び申し上げます。

僕にとって重要な出来事であったので
ここに書き残させていただきます。

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Back to Kobe③14年振りに、実の父との再会。

神戸帰郷、最終章。

神戸で過ごした一ヶ月半は
とてもせわしく様々な事に精を尽くした。

Barでの仕事の他にも、
神戸でとても世話になっている社長の不動産仲介業の仕事や、
廃品回収業の手伝いなど、
寝る間を惜しんで働く日も多々あった。

神戸を旅立つ数日前。
僕はある人に会う決断をした。

それは、実の父だった。

父親とは中学1年生の時に母と離婚してから
14年間も顔を合わせていない。

僕にとって親父は、
この果てのない旅に出る決意を決める
キッカケとなった人でもあるのだ。

それは、僕がまだ会社で働いている時の事だった。


高校を卒業してすぐに就職。
それから5年間その会社で働いていた。

僕は小さい頃から
「おじいさんの会社を継ぐんだぞ。」
そう言い聞かせられ育った。

もちろん僕も無知だった少年時代には、
そうなる物だと思っていた。

だから、学校で勉強しなくても
将来は簡単に社長になれるんだからと勉強をする事を怠った。
学校にもあまり行かなくなり、
盗んだバイクでフラフラほっつき歩いて
好き勝手に生活をしていた。

いざ社会に出ると、
僕は何も勉強をしてこなかったので
知らない事だらけの非常識人だと云う事に気がついた。

会社の人間からは、
「お坊ちゃん」だの「ボンボン」などと言われ
当然の仕打ちを受けた。

実際に僕はそうだった。

それからは
僕なりに危機感を感じて仕事に専念し、
一つの部署を任されるまでに至った。

そんな頃だった。

ある日突然、
それまで行方知れずだった実の父が
僕と同じ会社に帰ってくる事になった。

「10年ほど前に訳ありで離婚し音信不通だった親父が
どのツラ下げて帰ってくるんだ!」

僕は違う部署に居た親父にそう言って電話で激怒し、
顔をあわせる事なく、その日会社を辞める決意をしたのだ。

と言っても。
僕は先ほどにも書いた通り、
何も知らない無知の無力なお坊ちゃんだった。

だから、もっといろんな事を知ってみるか。

そんな単純な発想がこの果てのない旅に出るキッカケの一つとなった。

それから、
何故このタイミングで会う事になったのかは、
僕が自転車旅に出てからの物語に話が繋がってくる。


それから4年後。

一昨年の夏。
僕は四国一周を経て下関から九州へ入り、
鹿児島まで南下した時の事だった。

熊本の天草下島から船に乗って鹿児島の長島へ渡り、
DSC_0564.JPG

阿久根地方へ向いて自転車を走らせていた。
DSC01234その日は台風が近づき、
雨風が凌げて寝床となるいい場所はないかと探していた。

そこへ、なんだか身に覚えがある家が目に入ってきたのだ。

IMG_3095.JPG

そこはおじいさんの別荘だった。

ここは僕が幼い頃に親父やおじいさん達と何度か来た事がある。

鹿児島の阿久根市は、
おじいさんの生まれ故郷なのだ。

IMG_3097.JPG

周辺に住んでいる知り合いのおじさんに連絡して、
台風が近いからここで雨宿りさせてくれないかと頼み込んだ。

台風が過ぎるまで
子供の頃に遊んだ昔懐かしい別荘に
停泊する事になったんだけれど、
そこでおじさんに聞かされた衝撃の事実。

「よしあきくん、
もう何年も親父と話して居ないんじゃあないか?」

ええ、そうですね。
会社を辞める時に一方的に怒って話したほどで、
もう10年間ほど話していません。

「そうかい。実はね。3ヶ月ほど前まで別荘には
ここに君のお父さんが住んでいたんだよ。」

えぇ?そうなんですか??

「あぁ、そうだ。
お前の親父は最近はすごい頑張っていたんだぞ。
どうだ、悪い事は言わない。
お父ちゃんに電話してやったらどうだ。」

そう言って半ば強引に親父に電話をかけ始め、
そこで10年ほど振りに会話を交わす事となった。

その事がきっかけで連絡を取り合うようになったのだ。

僕は旅をする事で人の大切さを心底学んだし、
何よりこの身体があるのはやっぱり
産んでくれた親のおかげである。

親父も、一度お前と酒でも飲んでみたな。と言うもんで、
会えるタイミングがあれば食事でもしようと
云う事になっていたのだ。


12月13日
神戸の三宮で夕方6時に親父と待ち合わせ。

僕は14年振りに会う親父の元に向かって歩いていた。
緊張とワクワクが入り混じった不思議な感覚だった。

親父、老けたかな?
どんな顔だったっけ??
会って一言目、なんて言おう?
こんな時代に下駄履いてるし、
こんなボッサボッサな頭、なんて思うだろう?

色々と想像を巡らせながら街を歩いた。

待ち合わせ場所には先に親父が待っていた。

徐々に歩いて近寄ると
なんだか、それらしき人が見えるんだけど定かではない。
なんにせよ14年振りなのだ。

お互いの顔がはっきりと見える程に近づくと
ようやく親父が手を挙げた。

おぉーーーーーーー、
久しぶりやね!おとん!!

そう言って両手を広げて抱きしめた。

親父も
「おぉ、久しぶりだな。
なんだか父ちゃん泣きそうだー。」

そう言ってとても喜んでくれていた。

それから近くの焼き鳥屋に入って
14年間の溜まりに溜まったお互いの心境を
話しながら飯を食った。

親父が離婚した原因はちょっとした借金だった。
けれどもあれから東京に出ていろんな事に精を出して頑張って、
その借金の額よりも遥かに多くのお金を稼ぐまでに至ったそうだ。

今まで親父に対して感じていた事は勘違いだった。
親父は親父なりにあれから頑張って成り上がっていた。

そんな話を聞いて、
少し僕の心の蟠りがほぐれるようだった。

酒が進むにつれて、
親父は僕の事について聞き始めた。

「今の事を続けてどうしたい?
それで飯食っていけるのか?
お前はなんつったって長男だから家の仕事継いで
会社を守っていかなきゃならないんじゃないか?」

親はいつまでも親だった。

まぁ、言われている事は分かっているんだけれど
俺はこれまでに数多くの人に
これを必ずやり遂げると約束してきたし、
今更決めた事は曲げられない。

10年やり続けると決めた以上、
俺は残りの5年間それをやり続ける。

そう言って、
また会社に戻って来いと云う誘いを断った。

23才の頃に決めた揺るぎない事。

『10年間これを続ける。』

23才から始めて終わる頃には33才。
その10年間、気合と根性で旅を続けて様々な事を経験し、
もし全て金目の物を失って0の状態で帰ってきたとしても、
僕はその頃には沢山の方向性や可能性を知っていると思うのだ。

33才の誕生日に新たな決断をする。
それまでそれより先の事は決めない。

それからもう少し続けてその先へ行くのか、
それまでに見つけた物の道へ進むのか。

その時にそこから見える景色が見て見たい。

焼き鳥屋でご飯を終えて、
僕は自分の店に親父を招いた。

この日、写真を一枚も撮らなかった事が残念だ。

店に立って
Barに来る外国人とちょっとした英会話を
僕がしているのを見て親父はまた、
「お前、英語も喋れるようになったのか!
父ちゃん泣きそうだわ。」
などと言ってまた感傷に浸っていたのだった。

翌日も仕事で忙しい親父は、
電車が動いている内に帰って行った。

久しぶりだったけれども、
長い時間会っていなかったことを感じさせない。
そんな親父との再会だった。

血の繋がった人と云うのは、そんなものなのだろう。

その数日後、
僕は神戸から北海道へと
また旅発った。